坩堝シンジケートの隠れ蓑

「三人揃えば文殊の知恵」の反例として存在する今日この頃です(すぐ倍に増えたけど)。何をする訳でもなく、徒然なるままに色々やっていこうと思います。

つくって魔具魔具 立志編

 子どもの頃の夢は「工作員」だった。
 別に、他国に潜り経済を傾けることに憧れていたわけではない。単純に言葉の意味を知らなかったのだ。幼き日の私はただ、「工作」という単語に惹かれていたに過ぎない。
 今でこそ糞尿しか生み出さない私だが、子供の頃は図画工作が大好きなクリエイティブ極まる少年だった。自分の作ったオリジナル玩具を保母さんに見せ、褒めてもらうことが喜びだった(ちなみに学友に見せることはなかった。子どもは保母さんと違いおべんちゃらが言えないからだ)。図書館に行けば「たのしい工作」だとか「工作図鑑」だとかに飛びつき、技術を仕入れては家で素材を集めて実践を繰り返した。
 果てのない創造の道。そこに足を踏み入れるきっかけとなったのが『つくってワクワク』という番組だった。NHKで放送されていた『つくってあそぼ』を短く編集したもので、分厚い眼鏡のワクワクさんが目に光のない熊のゴロリに工作の喜びを教えるという内容なのだが、私は彼らが身近なものを組み合わせてイカした玩具を生み出す様を見て、この上なく心を高ぶらせた。この技術さえあれば、親に玩具をせがまずとも娯楽を手にすることができる。年端もいかぬ幼子にとって、ブラウン管の画面越しに創造の御業を披露するワクワクさんは、人類に火を与えたプロメテウスの如しだった。
 まるで託宣のように、NHKへとチャンネルを合わせる日々。その中でも、私が特に印象に残っているのは「ストローロケット」だった。竹ひごに洗濯ばさみを固定することで発射台を作り、そこからロケットの形をしたストローを放つという玩具だ。
 まさに衝撃であった。当時の私にとって、洗濯ばさみとは物を挟むためだけのものだったからだ。それなのに、このストローロケットはどうか。洗濯物を干すために備えられたC字型のばねを、ストローを弾くために使ったではないか。
 私はその瞬間、世に存在するものは無限の可能性を秘めているのだと感じた。森羅万象の多くは機能を持つ。その機能は大体において、一つの目的を達成するためだけに備え付けられたものだ。洗濯ばさみが物を挟むという目的のため、あのワニのような口と素晴らしい弾性を秘めたばねを与えられたように。
 だが、そんなことは関係ないのだ。それが何のためにあるのかを考えるのは大切だ。しかし、それによって想像と創造の翼を畳む必要はない。目的のために存在する機能を駆使して、創造主も予想していなかったような新たな価値を生み出してもいい。ワクワクさんはゴロリとの掛け合いを通して、私にそう語り掛けたのである。

 一の事物に万の意味、その面白さの虜になった私が、図画工作と同時にはまっていったのが『オカルト』であった。
 発端は、図書館で出会った『地獄堂霊界通信』という児童書だった。香月日輪先生が書いたこの傑作小説は、小学五年生の悪ガキ三人組が魔法を引っ提げて怪異とぶつかっていくというストーリーなのだが、これがまあ衝撃だった。どの部分が衝撃だったかと言えば、魔法が異世界ではなく日常に存在するということだ。当時の私はテレビで『ハリー・ポッター』シリーズなんかを見ていたが、あそこに登場する魔法というのはホグワーツをはじめとする特殊な空間でのみ発揮されるものに映った。不思議なものは不思議なところにしか登場しない。それはそれで面白いのだが、想像力の欠けた自分にとって、異国で光を放つ杖というのは、どうも遠い存在に感じたのである。
 しかし、この地獄堂霊界通信シリーズではどうか。舞台は現代日本のありふれた町であるにもかかわらず、まるで電柱の影にでも潜むように、幽霊やら呪札やらが日常に紛れ込むのだ。死神が居座ったせいで魔窟と化した、どこにでもありそうな病院の一室。成分不明の飴玉を食って異形となった、普通の子犬。きっかけこそ特殊だが、普通のものに普通でない意味がねじ込まれる様子は、見ていて胸が躍った。
 日常に潜む非日常。それがオカルトの本質なのだと思う。目で見たり手で触れたりできない、科学的な説明の不可能な力学を、自分の生きている世界の中から感じ取る。盛り塩、テルテル坊主、十字架etc。素材こそ現実のありふれたものでも、そこにまつわる逸話や文化的背景によって、膨大な機能を付随されるのである。
 このオカルトの在り方は、子供の頃の私にとって魅力的に映った。それは工作のもたらす喜びに似ていた。既存のものに新たな価値を見出す。洗濯ばさみに発射台の機能を見出すように、塩化ナトリウムに魔除けの効果を見出す。一の事物に万の意味、とても面白い。

 さて、時は流れて現在である。ワクワクさんもバラエティーに出て人間宣言を進める中、私は他人に与えられた既存の娯楽を、ただ享受するだけの豚の如き日々を過ごしていた。もはや洗濯ばさみは洗濯ばさみにしか見えない。何たる堕落。
 そんな生ける屍と化した私であったが、幸運にも似たような社会不適合者が近隣に二人ほどいたので、坩堝シンジケートとして徒党を組んだ。ろくでなしほど集団に属すれば気が大きくなるらしく、生産性とは無縁の組織に籍を置いたことで、私の体には数年ぶりの活力が湧いてきた。そして、止せばいいのに何やらクリエイティブなことがしたくなったのだ。
 しかし、根が穀潰しである。享受してばかりの人生を送ってきた私には、無から有を生み出す力などない。ならば手持ちの札で勝負するしかない。今までの無為な人生の中に、手違いで光るものが紛れ込んではいないか。そうして記憶のドブ攫いをする道中、文頭のようなことを思い出した次第である。
 図画工作とオカルト。この二つを活かして何かできないか。そして、私は一つの結論を導き出した。
 そうだ、魔術用品を作ろう。
 こうして私は、生来の無鉄砲と無計画にモノを言わせて、オリジナルのオカルトグッズを作ることにした。幸いにも『とある魔術の禁書目録』や『ロード・エルメロイⅡ世の事件簿』を履修しているので、剽窃するアイデアには事欠かない。あわよくばプラシーボ効果で一人幸せになりたいものだが、それはまた別の話。まずは腹の底から湧き上がる、悪心の如きクリエイティブさを慰めねば。
 そんなこんなで、次回からシモゴエの無教養記事『つくって魔具魔具』の開演である。良い子の皆はすぐに読むのを打ち切って、布団にくるまり震えて眠ろうね。良識のある大人の皆はこんなもの見ずにビジネス書の類を読んでね。

(文責・シモゴエ)